ソーシャルネットワーキングサイトの日記に書いたこと

たった2日の休養じゃないか、という声とともに小石が飛んできそうな気もしますね。

とくに一生懸命考えたというわけではないのですが、そろそろ、自分の感覚に対して正直になることに勇気を出そう、という気持ちになってきています。今まで、自分が感じることは、ただ私が考えすぎていたり神経質すぎていたりしていて、真実はそうじゃないのに歪曲して感じているだけかも?という疑問がぬぐえない部分があったのですが、実はそういうわけでもないんだろうな。そんなことを言い出すと、誰でもが真実なんて見えていないということになりそうだもんな。ああ、そっか、実は見えていないわけだけれど、見えていないなりに、なんとかやっていく、というのがよさそうだもんな。そんなことを2日間考えていました。

私が感じていることは、私が感じていることそのもの、それ以上でもそれ以下でもなく、紛れもなく私にとっては一つの真実で、「感じている」という事実がそこにある。ただ、そこには、それは単に私が、ということがちゃんとのっかっているわけであって、ほかの誰かに、もしくは、ほかの誰でもに見えている真実とは違うかもしれない、ということ。でも、絶対に違うことばかりでもなく、同じ、もしくは似通ったものである場合も可能性としてはあるかもしれないこと。そんな当たり前のことを、もう一度認識しなおしていたので、ちょっとすっきりしました。

自分が窮地に陥っていると「感じる」とき、実際の状態の如何に関わらず、それは自分に対する危険信号であるわけなのだから、そこを作為的に無視するのはやめよう。人を理解しようと努力する前に、自分を感じることをおろそかにするのはよそう。大概のとき、人の言うことをそのまま捕らえようと頑張ったところで、時がたってみれば、そのときに感じた自分の感覚であるところの違和感を、無意識的にか、意識的にか、自分で認識することを避けていたのだなあ、と思わされて、そんなことを繰り返しているうちに、すっかり自分を見失ってしまった気がします。そういう努力自体を続けていると、自分の感じることに対して耳を澄ますことを罪悪と感じてしまうわけで、そんな馬鹿な試みから手を引こう。


ここで私の書いている文章は、ほとんどが読んでくださる方々を頭の中において書いているものばかりで、どちらかというと本当の意味での日記とは違うかもしれません。今日のこの文章はちょっと中途半端ですね、ごめんなさい。ちょっとした私信めいたものだと思ってもらえば幸いです。

ここは私の新しい世界を作ってくれました。とても、みなさまに感謝しております。とくに、今回、一度やめてしまって入り直し、またお手数をかけてしまったにも関わらず、変わらず仲良くしていただいて、本当に感謝しています。どうもありがとう。

以前のように、毎日は書けないかもしれないですが、また何かおもしろいことを見つけたり、ああ、これについて、みんなとおしゃべりしてみたいなあ、なんて思ったときには、ここでy節を繰り広げようと思っています。そのときは、また、よろしくね。


私は実は以前から、もうずっと文章中毒でして、今もまた、ほんの、小さな私的な文章を書いている場所がほかにもあります。もし、ご興味のある方は、どうぞいらしてください。