わが町


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「わが町」というと、私にとってはやっぱり3歳から大人になるまで暮らしていて、今も実家のある、北摂の町になる。昨日のお昼にそこまで電車で久しぶりに行った(車で通るだけならわりと頻繁に通るあたり)のだけれど、駅前から裏通りに入ってみると、まだまだ昔の面影がいっぱいあって嬉しくなった。

私は、3歳までは大阪市内の下町で過ごした。町の景色は、面白いものでとぎれとぎれながらも結構覚えている。父の学生結婚だったからか貧乏な両親は、人の家の2階に間借りして生活をスタートさせた。そこで私は生まれた。父に背負われて通った銭湯の男湯にはライオンの口から熱いお湯が湯船にでてくるしかけがあって、そこには子どもは近づいてはならない、と言われていたこと、普段は母の実家の会社のお風呂に母と入りに行っていたのだけれど、そこには清潔なヒノキのすのこがあって、その下をお湯が流れるのを覗いていたこと、家の玄関から外に出るときは、角度の急な階段を気をつけながら下りなければならなかったこと、氷屋さんが冷蔵庫に入れる大きな氷を配達していたこと、通っていた散髪屋さんの清潔なタイルの壁、神崎川の土手で橋の欄干に登ったこと、目に見える景色の断片が、まるでモノクロ写真のように残っている。不思議なものだ、色彩というのは、記憶に残ると褪せてしまうのだろうか。

その後、父が大学院を卒業し、少しは生活が楽になったのだろう、我が家は下町から郊外の北摂に住居を移した。母の実家があるのと同じ市だ、というのは、多分、幼い子どもたちの面倒を見てもらうのに都合がよかっただろうし、何より、そこは環境がよかった。緑もたくさんあったし、文化的な匂いのする町だった(今でももちろんそうだ)。その市内で一度引っ越しをしたけれど、学校に上がってからはずっとその雰囲気の中で暮らした。歯科大学に入学するために、父が地元の学校に私が行くのを嫌がったせいで(いろいろ学閥などあるらしい)、あまり何も考えずに、随分遠いところで一人暮らしを始めたのが20代になってすぐのこと、あまりの雰囲気の違いに戸惑い、落ち込み、すっかりホームシックになったものだった。

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今の私は、もしかして、あまりに色々なことがありすぎたことで自分に課した長い長い回り道をやっと終えて、ホームシックになっている自分を受け入れる準備ができてきたのかもしれない。この町に戻りたい、そんなことを、昨日は強く思った。