朝。秋。雨。

先生。過剰適応、ってこういうことだったんだ。あのとき、あのことに限定してどういうことかはとらえることができていたけれど、今日は違う。こういうことだったんだ。

どうしよう。涙が止まらないよ。

でも、この「どうしよう」にさえも、答えを見つけ出して、適応しようとしている自分がいる。

わかっているのは、それでもいい、ということ、でも、それには、自分で自分を包むブランケットを見つけなきゃならないこと。

どうして、わかるの?わからない自分に、なったら、それは楽になれるのだろうか?

それとも、これは、また間違っているのだろうか。でも、きっと、大きくは間違っていないよね。いつだって、そうだった。きっと、今は混乱していて、よくわからないけれど、きっと、はずれじゃない。でも、それがはずれじゃないことが、問題の一部分だったりする。

先生が言った、「過剰適応に気づけば大丈夫でしょう」という言葉。呪文にしてみます。

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追記。私がここに書いている過剰適応は、ただ単に優等生でいる私、だとか、頑張りすぎる私、だとか、そういう一般的な意味での過剰適応ではないのです。それゆえ、先生に「過剰適応だ」と指摘されたときに、え?私そんなに優等生じゃないし、自分を型にはめこんでいるタイプじゃないと思うんだけどな、と少し抵抗したわけです。でも、そんな意味じゃない過剰適応が私にはあることが、少し見えてきたというのが今の私の立ち位置です。