毎日海を見ていると、ずっと前から、既に夏だったように錯覚するけれど。

夏。このあたりの浜では、連日サーフィンスクールが開催されていて、もうほんと、私もスクール行ってしまいそうな勢いです。

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写真に対する気持ちの根底が、ずいぶん変わった気がする。これまでは、渇望感いっぱいだったけれど、今はもう少し、自分の中から水の流れのように、何かがあふれて来ているように感じる。

さて、そのことで、撮れる写真が変わるのか。

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そろそろ展示にも顔を出し始めます。ライムライト女子展、マルチフォーマット展と続く予定。

そしてヒヨシへ

写真家、田村彰英さんの主催するワークショップに行ってきた。東京綜合写真専門学校の暗室を使ってのプリント指導、そして、今回は、田村さんと伊奈英次さんのお二人によるレビューもあって、とても丁寧にみてもらった。

一夜あけて、さっきから、いろんなことが噴きだしてきて、泣きそうになっている自分を発見。写真をやり始めた頃に、「ああ、これで救われた」と思ったことなど、思い出す。

原点にたちかえる。

自分のやりたいことが、少し見えた気がした。ゆっくり立ち上がろう。

喫茶Stoveにて

気軽な展示をしています。

そんなこんなのアジア旅行、お気楽スナップ写真編。一連の「南風」写真展のmakingでもあります。

適当な時期まで。コーヒーとケーキ(今はヨーグルトポムポムといちごのロールケーキがおすすめ!)とご一緒に、ひとときを。

「密売妄想@NOMA」終わりました

妄想ってなんだろう、と考えている途中に、あ、エロスと妄想は私にとっては別物よね、と思う。エロスは現実、妄想の中にエロスにつながるものがあったとしても、それは全く直接的じゃない。

まあ、そんなことを考えながら、妄想展おわりました。

来てくださった方、いろいろな感想をくださった方、私の妄想のカケラを連れて帰ってくれた方、ありがとうございました。

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次の展示予定は、多分、大阪、福島聖天通りの喫茶Stoveさんにて。期間は未定ですが、少しカジュアルな展示を考えています。詳細は追ってまた。

展示中

今回の「妄想」には、実は自分としては、スタートがあった。”so ordinary but lovely pieces"ーもちろん、いつも私の写真は(というか、いつも私の人生は、と言ってもいいのだけれど、ちょっと小難しいか)つまらない普通の、だけどとても愛おしく抱きしめたい瞬間を、しっかりと意識することが目的なのだけれどー

臨死体験というものを聞いたことがあるだろうか。私自身、それに近い感覚を、これまでの人生で二度体験した。一回目は20歳の頃、まあこれはある意味、本当に臨死に近いのだけれど、病気で高熱を出して意識を失っていくその瞬間。二回目は2年前の手術の時の全身麻酔で意識をなくす瞬間。面白いことに、その両方に、同じ感覚を思い出すことができる。

意識が遠のくと同時に、目の前が真っ暗になる。ただし、これは視覚がなくなるのとは違うのかもしれない。真っ暗という闇が認識できていて、目を閉じているのと同じ状態。そしてその後、音が聞こえなくなって、それからカラダにかかる重力を感じなくなる。つまり、カラダが宙に浮いて、いや、浮くというよりは加速度つきで空中を宇宙に向って飛んで行くというかそんな感じで、なにか時空のトンネルのようなものに、ごーーーっと吸い込まれる感覚。その時、真っ暗な闇の中に、視覚のカケラが一緒に飛んでいるのが見える。それが、今回の「妄想のordinary pieces」。

一緒に飛んでいたのは、壁掛け時計、花びら、私自身のマニキュアした爪、水の入った容器、夕日のあたる部屋、、、そんな何でもないイメージの数々。その時に「不思議の国のアリスってこんなところをくぐったのかな」なんていうことも思った。不思議な体験だけれど、多分、これはまた私の命が本当に消えていくときにも、同じ感じじゃないのかなあ、と思っている。

ただ、その想像は、決して恐怖だとかイヤな感じだとか悲しいだとかいうものではなく、なにかとてつもなく柔らかく温かな体験のイメージ。死んで行くということに対して、私はそんなイメージを持っている。20歳の「臨死体験」のあとに、私は「自分が死ぬこと」を明確に意識することになったのだけれど、その時も、一瞬の大きな恐怖のあと、言いようのない大きなものに抱かれたようなー白くて大きくて私の上からかぶさってくるような、そんなイメージを持ったのだった。そして、その白くて大きくて、というイメージは、その後また、最近になってある人の絵の中に見つけることができたりしたのだけれど、それはまた、次の機会に。

「密売妄想」。NOMAにて、次の日曜日まで。